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中山樓の歴史

       蒋中正総統は1966年11月12日の国父生誕百周年を記念し、盛大な祝賀式典の開催以外に、深く人の心に入り込み、永久に伝えられていくような記念建築物を建造し、国父の功跡を称えることにしました。そこで1964年9月1日に「中華民国各界国父生誕百年記念準備委員会」を設置し、現在の台北市国父記念館の建設を決定し、幾度も準備会議を開催しました。1965年2月初めの第六回会議では蒋中正総統は陽明山国防研究院図書館付近に小規模の記念建築物を建てることを決定し、「中山樓」と名付けました。そして1965年2月20日、早急に関連事項を担当する「中山樓建設委員会」を設置しました。建築家の修澤蘭氏が設計図を選定し、工事建設は国軍退除役官兵輔導委員会栄民工程処が請負いました。

       中山樓は硫黄の出る土地に位置し、地熱が強く、土質は硬いものと軟らかいものが混在しています。石と土砂が混ざり合い、加えて当時の建築機具は粗末であったため、工事の困難さが倍増しました。幸いにも作業員全員が国家のために非常に忠実であり、「たとえ火の中水の中、危険を惜しまず立ち向かって努力する」という何ものをもおそれない精神で、艱難辛苦を克服しました。1965年10月2日の施工開始から1966年11月6日の完工まで、1年1個月と4日間を要し、空前の工期の短かさで壮大で美しい、著名な「中山樓」が完成したのです。その工事は困難を極めましたが、中山樓は世界でも珍しい硫黄鉱山上の建築物となったのです。1966年11月12日、蒋中正総統自らが主宰し盛大な落成式典が開催され、ここに中山樓の歴史が始まったのです。

       中山樓は敷地総面積13,583平方メートル、建物の総面積18,129平方メートル、高さ34メートルで、全建物は中国宮殿式建築芸術を基礎とし、山を背にして建つ古典的建築物です。雄大な外観と絢爛たる内装、重なり合った建物の構造、屋根には緑色の琉璃瓦が敷かれ、反り返った軒先は大鵬が翼を広げるように生き生きとしています。また赤いひさしと白壁はまさに雄大で美しい姿です。内部には古典家具のインテリアを配置した応接庁、1800名を集めた会議機能を擁する中華文化堂があり、内装は明・清時代の絵画や釣り灯篭といった変化に富んだ様式を採用しています。砂を使用した立体的で優雅な天井、梁や柱、壁の鮮やかな色彩は変化に富んでいます。ここを見た人は皆、優雅で華麗であると称賛することでしょう。さらには大型大理石の円柱、床を覆う鮮紅色のカーペットは非常に華麗で立派、台湾における中華文化復興運動時代の代表的な建築物です。

       中山樓の落成後、国民大会はここで開催されるようになりました。建物内の「中華文化堂」は国民大会の専属会議場所として、第一回第五次国民大会から数多くの会議及び臨時会が開かれました。中華文化堂の主要な任務と功績の一つが、先代総統の蒋公、蒋経国総統、及び李登輝総統といった2000年の直接総統選挙以前の歴任の総統と副総統がここで開催された国民代表選挙にて任命されたことです。次に憲法改正会議がここで七回も開催され、台湾の現況に合うよう憲法の増訂が行われました。こうして台湾の民主立憲政治の発展・歴史の場所として大きな歴史的意義を擁する建物となりました。

      中山樓は当時の政府が開催するパーティー、重要な会議、国内外の貴賓客を接待する重要な場所として使用されました。また、蒋中正総統と夫人、歴任の総統はここで幾度も各国の大使、外賓、海外より帰国した台湾人をパーティーに招きました。中山樓は国の重要な象徴として、ゆるぎない地位を確立し、その建物の外観は歴年の台湾ドルのお札、郵便切手、印紙、愛国証券…等、政府から有価証券の図案として採用されました。

      中山樓落成後、1967年3月に中山樓建設委員会の任務は円満に達成し、解散されました。行政院では中山樓は陽明山管理局の管轄内に位置するものの、陽明山管理局の行政系統には入れないことが適切であるとして、中山樓管理処を設立しました。ただし、中山樓の保守管理に関する事項は陽明山管理局局長が担当することとなりました。その後、中山樓の所属機関は幾度も変わり、2012年には国立中央図書館台湾分館の所属となり、2013年には国立台湾図書館所属に昇格しました。
 
陽明山中山樓管理所改制(所属)沿革一覧表
日付 部門名称 職称 主務管理者 所属機関 主務機関
1966.11.12 中山樓建設委員会 主任委員 趙聚鈺 国防研究院 總統府
1967.7.1 中山樓管理処 主任 金仲原 行政院に所属し、陽明山管理局局長が責任を負う。
1974.1.1 中山樓管理処 組長 周学敬 台北市陽明山管理局 台北市政府
1977.1.1 陽明山管理処第一組 組長 周学敬 陽明山管理處 台北市政府
1980.1.1 台北市中山樓管理所 主任 周学敬   台北市政府
1986.7.1 陽明山中山樓管理所 副館長兼所長 周学敬
張鼎華
曾一士
狄德蔭
国立国父記念館 教育部
2012.5.20 陽明山中山樓管理所     国立中央図書館台湾分館 教育部
2013.1.1 陽明山中山樓管理所 主任秘書兼所長 呉明珏 国立台湾図書館 教育部
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    修沢蘭建築師

    1965年10月2日

    政府では国父生誕百年周年と中華文化の復興を記念し、中山樓の建設を決定しました。著名な建築家である修澤蘭氏が設計監督を務め、栄民工程処が建設を請け負いました。

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    中山楼

    1966年11月6日

    壮大で美しい、著名な「中山樓」の全工程が僅か13個月で完成しました。

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    1966年11月12日

    蒋中正総統が自ら中山樓落成式典を主催し、国父孫中山氏の生誕101周年を祝い、この日を第一回中華文化復興節と定めました。

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    中山樓が初めて市民の見学に開放されました。

    1966年11月13日

    中山樓は初めて市民の見学に開放されました。全建物5か所の入口で市民を接待し、当日の見学者は数万人に達しました。こうして、人の途切れない、大人気スポットとなりました。

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    1972年3月

    1972年2月21日より国民大会の開催場所は陽明山中山樓中華文化堂に変更されました。並びに同年3月22日には第一回国民大会第五次会議選挙が開催され、中華民国第五期総統・副総統が任命されました。

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    中山樓が初めて市民の見学に開放されました。

    1978年3月21日

    1978年3月21日、国民大会第一回第六次会議が開催され、第六期総統・副総統選挙が行われました。選挙の結果、蒋経国及び謝東閔が総統・副総統に当選しました。

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    1984年3月21日

    1984年3月21日国民大会第一回第七次会議が開催され、第七期総統・副総統選挙が行われました。選挙の結果、蒋経国及び李登輝が総統・副総統に当選しました。国民大会総統選挙の大会主催者の孔徳成、及び副総統選挙の大会主催者代理の郭驥が当選証書を総統・副総統へ授与しました。

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    1990年3月21日

    1990年3月21日国民大会第一回第八次会議が開催され、第八期総統・副総統選挙が行われました。選挙の結果、李登輝及び李元簇が第八期総統・副総統に当選しました。国民大会主催者の何宜武が国民大会を代表して、総統の印を授与しました。

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    出席した代表者は挙手により中華民国憲法の修正条文の表決を行いました。

    1991年4月22日

    1991年4月22日国民大会第一回第二次臨時会が開催され、中華民国憲法条文第一条から第十条の修正案が通過し、「反乱鎮定動員時期臨時条項」が廃止されました。出席した代表者は挙手により中華民国憲法の修正条文の表決を行いました。

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    第九期総統、副総統の就任国宴が開催されました。

    1996年5月20日

    中山樓にて第九期総統、副総統の就任国宴が開催されました。

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    出席した代表者は挙手により中華民国憲法の修正条文の表決を行いました。

    1997年5月至6月

    1997年5月から6月国民大会第三回第二次会議にて、中華民国憲法第十一条の増訂が可決された。

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    2000年9月国民大会第三回第五次会議の現場

    2000年9月

    2000年9月国民大会第三回第五次会議にて憲法修正案が可決されました。国民大会は台湾省虚級化に伴い、領土変更、総統の弾劾・罷免案、憲法修正案の提出等の職権が立法院へと移されました。2004年8月23日立法院は憲法第7次増訂案を提出しました。増訂案は国会改革及び国民大会の廃除問題に関連するものでした。2005年5月には国民大会代表からなる任務型国民大会を選出し、同年6月7日には立法院が提出した憲法修正案と共に可決しました。6月10日には総統より公布され、こうして国民大会の歴史の幕は閉じられました。

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    陳水扁総統が中山樓を訪れました。

    2004年9月

    陳水扁総統が中山樓を訪れ、青年国是会議に出席されました。

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    2014年9月26日

    馬英九総統、呉敦義副総統、呉思華教育部長が台北陽明山中山樓にて開催された2014年師鐸賞表彰大会に出席され、国宴庁で教師たちに敬意を表し、祝杯を挙げました。

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